今年も1年ありがとうございました

 この年末年始は距離的なトリップは困難なので、「日本の民家」「民家は生きてきた」を頼りに時間的トリップをして過ごしたいと思います。今は無くなってしまったかつての日本の民家に関する第一級の史料を目の前にして、これからの未来へ向けて私たちはどのような社会を作って行くことができるだろうか、と真剣に取り組まなくてはならない問いに直面していることを痛切に感じています。

 多くの人が資本主義社会の限界を認識していますが、ではどうすればよいかについては、明確な回答は存在しません。何か一つの施策によって全てが解決するほど私たちの社会は単純にできていません。各自が人間らしく暮らせる社会を目指して、まっとうに「生きる」しかないような気がします。様々なテクノロジーの発展によって私たちの生活は、この写真が撮影された頃の日本とは比較にならないほど便利になりましたが、その便利とはつまるところ、生活の雑多な労働をアウトソーシングすることであった訳で、その意味で私たちの生活は多くの専門家の集合知によって成り立っているといえます。ですが、あまりに「ああすればこうなる」(@養老孟司)社会に慣れてしまったために、何か少しでも「ああすればこうなる」が成立しない事態に直面した際に、その責任までもを専門家に押し付けることになっていますが、多かれ少なかれ何かの専門家になっている現代人にとってその刃は自分に向かう可能性があることを認識しておかなければなりません。そして専門家に責任を押し付けている限り私たちの暮らしはいっこうにまっとうなものにはなりません。そのために生きるための知恵を再び手にする必要があるのではないかと考えさせられます。

 「日本の民家」の第1巻である大和・河内編が出版されたのが1957年なので、今から63年前ということになりますが、もうこの写真にあるような民家やそれらの作る街並みを見ることはできません。ですが、これらの写真やその解説からうかがい知れるこれらの民家を作り住んでいた人々が、生きるための知恵をしっかり手にしていたことを教えてくれます。

 「民家は生きてきた」の著者である、伊藤ていじさんはその概説の中で、民家は保存さるべきである、と小見出しを付け以下のように記しています。

 もし私たちが誇り高い現代人としての自尊心をもっているならば、祖先への郷愁としてではなくして、むしろ輝かしい構想力にみちた未来への現代的象徴または反映として、民家を保存すべきであると考える。

 伊藤さんの願いも虚しく民家はごく一部を除いてことごとく破壊されてしまいました。それでも、建築に携わる身として、輝かしい未来に向けて偉大な先人の遺した文化を継承していきたいと願っています。

日本の民家10巻セット(左)とその解説をまとめ増補改訂をおこなった、民家は生きてきた(右)