プライバシーとは権利を奪われた状態である

山本理顕「権力の空間/空間の権力 国家と個人の〈あいだ〉を設計せよ」(講談社、2015)を最近読みました。

その中で衝撃的だったのが、プライバシーとは、もともとは「隔離され閉じ込められた状態」を指す言葉であったという指摘。現在の私たちの認識からするとプライバシーとは保護されるべきものであって、何人もそれを侵すことはできない、と考えているが、言葉のもともとの意味は全く異なる使われ方をしていたと、山本は指摘している。

この部分だけを聞いて、現代を生きる私たちのうちこの指摘に納得できる人がどれだけいるだろうか。プライバシーの保護は年々その扱いがデリケートなものになっている趨勢を考えるとにわかに信じがたい主張である。

山本はハンナ・アレントの「人間の条件」を援用し、古代ギリシアの建築・都市の構造からプライベートな状態とはいかなるものであったかを紐解いている。

「古代ギリシアの都市(ポリス)は家(オイコス)の集合体である。ポリスと家は相互に極めて密接な関係を持っていた。家という私的領域は独立してある存在ではなくて、『ポリス』という公的領域との関係においてあるということである。つまり、私的領域、公的領域は相互の関係において初めて成り立っていた」という。家の中に公的領域が組み込まれていたのである。

ギリシアの住宅では男性のみ使用できる領域(アンドロニティス)と女性および奴隷の使用する領域(ギュナイコニティス)とに分けられており、この男性の領域が他人を招き入れそこで政治的議論などを行う場所として使われていた。政治に参加する自由の与えられた男性が使用する空間である。「政治に参加する自由」それが自由という言葉の本質である、と山本は言う。もちろんここで言う「政治」とは私たちがイメージするそれとは異なり、自分たちの生活に関する事柄を自分たちで決定しようとする態度のことである。こう説明されると一方のギュナイコニティスはどのような空間であったかが理解できる。それは、政治に参加する自由を与えられていなかった女性や奴隷の領域を公的領域から切り離して囲い込んだ空間を指しており、それこそが私生活の場=プライバシーであったのである。

転じて現在の私たちの「家」からはこの公に開かれた空間がなくなり、敷地の内と外で完全に公私が分断され家の中は全てがプライベートな空間となっている。ということは、私たちの暮らしは敷地の中は全てが私的領域であり、公的領域との関係を持つことなく成り立っていることになる。公からプライバシーを守られていると信じていた私たちの生活は実は、その中に閉じ込められ政治に参加する自由を奪われていたのである。そして、そのような都市のあり方を当然と考えている私たちは、自由が奪われた状態に閉じ込められているということすら意識できなくなってしまっているのだ。

この事実を指して山本は「権力の空間」と呼んでいるのである。私たちの自由は完全に私的領域に囲い込まれ、権力という得体の知れないものによって管理されている。そのような社会に私たちは暮らしている。そして最も恐ろしいことは、その事実に思い至ることが著しく困難であるということなのである。誰も自らの自由が権力によって管理されているとは考えない。それほどに都市における公と私の区別というのは明確であるべきと思い込まされているのだ。そしてこのシステマチックに管理された社会というのはますます厳しく私たちの生活の隅々にまで浸透されようとしている。

2020年7月5日の朝日新聞グローブは監視社会に関する特集を組んでおり、その中で世界の都市の監視カメラの数に関するデータを掲載していて、最多は中国の重慶で人口千人あたり168.03台だそうだ(重慶市の人口が約3,000万人なので監視カメラの数なんと500万台!!)。3家族程度を1.6台のカメラで監視している考えるとかなり恐ろしい事態であるように思われる。私的空間での自由(閉じ込められたと言うべきだろうか)を確保された私たちは、一歩そこから出た途端に厳しく管理された社会へと足を踏み入れることになって、その空間における自由は一切なく、その社会における政治に参加する権利も奪われてしまっているのである。

そのような危惧から、山本は建築家としての立場から「個人と国家の〈あいだ〉を設計せよ」との副題を付して権力の空間に抗うために、空間の権力を回復する必要があると説いている。公と私の間に厳然たる境界を引くのではなく、それらが交わり、私たちが権力(自ら行うべきことを自ら決定する活動の力)を持つことのできる空間をつくらねばならない。この論考の中で「閾」空間と呼んで、「住宅は単に私生活(プライバシー)のための場所ではない。住宅は『地域ごとの権力(コミュニティ)』に参加できるような空間構造を持っていなくてはならない。」と山本は提案している。

そのような空間のあり方については、様々な形態が考えられ、実際に試みられてもいる。しかし、それらの空間をいきいきしたものにするのは、私たち市民の意思なのである。政治に参加し、自らの暮らしを自らの意思で決定しようと行動すること。それなしには、優れた建築空間も有意義に活用されない。

建築設計者として、そのような空間を創出し、私たちが人間らしく生きられるような社会にするために力を尽くしたいと願っている。

そのような「空間の権力」を回復するための方策として、槇文彦さんは「共感のヒューマニズム」という概念を提唱されている。 つづく