「手入れの思想」というフレーズは養老孟子先生の著書「手入れという思想」からお借りしました。養老先生はかねてより、都市に住む私たち現代人の生活を「ああすればこうなる式の脳化社会に暮らしている」と指摘し、警鐘を鳴らしています。都市には人工物しか存在しませんので、論理的にはその中で起こることは全て想定内のことであるというのが脳化された社会ということになります。
家と庭という関係でいくと、家の中というのは養老先生の定義に従うなら、設計者の脳の中に住んでいる脳化社会になります。家の中では「ああすればこうなる」が通用するようにそもそも作られているので、そこには自然=ああすればこうなるが通用しない事態、というのは初めから排除されているのです。
そこで庭はどうなのかということになりますが、これはある程度はコントロールされた自然(何を植えるかやどこに植えるかは人間が決める)ということになりますが、「ああすればこうなる」が通用しない世界です。植えた場所がその植物の生息環境に適していなければ間もなく枯れてしまうでしょうし、適正な環境であれば逆にどんどんと成長していきます。大きくなる木であれば、放っておけば家の高さは優に超えていくでしょう。植えていなくてもどこからともなく種子が飛んできて、雑草が次から次へと生えてきます。どこからともなく虫がやってきて、いつの間にか住み着いています。それらの小さい虫や植物の実などを食べに小鳥がやってくるようになって、なんとなく小さなエコシステムが生じてきます。これは「ああすればこうなる」ものではなく、やってみないとわかりません。
しかし全く放任にして野放図にしておくわけにもいかない(放っておくとと日本のような恵まれた気候だとあっという間に林のようになってしまいます)ので、最低限の「ああすればこうなる」を維持するために「手入れという思想」が生まれてくるのです。まあ、思想というとなんだかずいぶん高尚なもののように聞こえてしまいますが、毎日のように変化していく植物たちに対してサポートをするくらいのことです。水やりをし、剪定をし、雑草を抜き、必要に応じて肥料を与え、などなどといったように庭を適切に維持するために手入れをし続けなくてはなりません。それとても、「ああすればこうなる」わけではなくまさに、人事を尽くして天命を待つの言葉通り、人の手で出来ることはごく僅かであとは自然に任せておくより仕方ありません。
極度に脳化された社会に生きる私たちにとって、この「手入れをし続けなくてはならない」と「仕方ない」いう気づきがとても大事なのではないかと思います。都市に暮らしていると、あらゆることが想定内でなければならず、想定外のことが生じないようにというプレッシャーから都市はますます自然=人間から遠く離れていきます。ここで人間の体が最後に都市に残された自然であることに思い至ると、都市を維持するために人間を排除するというブラックジョークまであと一歩というところまで私たちは来ているのかもしれません。
そういった原理主義に陥ってしまわないための最も身近な工夫として庭があるのではないかと思います。「家庭」という字は「家」と「庭」から成っています。ここでの定義でいくと「家」とは「ああすればこうなる」世界です(本当はそうではないのですが庭との対比のために一応そのように定義しておきます)。そして「庭」とは「ああすればこうなるの通用しない自然の」世界です。「家庭」という単語はその両方の世界のバランスを認識するための知恵として作られたのではないかなという気がします。厳しい自然の中でなんとか生き延びるために、コントロールされた空間はどうしても必要で、それが家などの建築が作られる動機です。一方で、一歩その快適な環境から外へ出ると人為ではどうすることもできない自然に囲まれているのだということを忘れてはいけない。人工物に囲まれた都市で暮らしているとどうしても、その事実を忘れてしまいがちなので、教訓として庭が必要だったのではないでしょうか。
私たちはみんな体という自然を抱えて生きています。自分の体もまた「ああすればこうなる」は通用しません。そういう意味ではどれほど脳化の進んだ都市に暮らしていたとしても、自然との親和性というのは失っていないと思います。だからこそ庭に出て地面に直接触れたり、毎日のように変化していく木々や草花の姿を見ているだけで純粋に楽しくなります。そういう楽しみを通じて、脳化社会から一歩外に出て、自然に対して手入れをし、ああすればこうなるが通用しなければ仕方がないやと諦める、という思想が醸成されてきます。
家を建てる時には庭も一緒にと多くの方は考えると思いますが、庭については5年後くらいに理想の姿になっているくらいの、のんびりしたペースで少しづつ手を入れていくことをおすすめします。造園屋さんにお願いすると竣工時に庭も完ぺきな状態に仕立ててくれますが、庭はそこからもどんどんと成長していきますすので、あんまり完ぺきな状態を厳しく追及すると、そこで時間を止めたい衝動に駆られてしまい、結局庭にたいしても「ああすればこうなる」を要求するようになってしまいますので、それでは本末転倒です。たまに髪型がばっちり決まった日には、このまま髪の毛が伸びなければいいのにな、と思うことがあるでしょう(笑)。それは自然である私たちの体には通用しません。庭も同じです。2mを超すくらいの高木になるとさすがに専門家の力を借りなければならないので、初めは造園屋さんに相談して気に入った高木を数本植えてみましょう。それらの高木を足掛かりにして少しづつ自らの手で色々と植えてみるという作業を通じてわかってくることがたくさんあります。
と偉そうに知った風に書いてきましたが、私も初めて庭づくりを体験してみてまだ1年と少し経過しただけなのですが、自分でもこれほど楽しめるとは思っていませんでした。初めは庭がきれいだと、建築も3割増しくらいにきれいにみえていいなーというくらいの安易な考えだったのですが、今では、いかに自然が複雑で奇跡的なバランスの上に成り立っているのかということを知り感動する毎日です。季節の変化に敏感になり、近所のお庭や近くの公園の植栽なども気になり始め、花の咲く時期や紅葉の進行など、いままでどれほど世界を見ていなかったかを知り、情けなく思う一方で、家づくりを通じて世界が広がったことをとても嬉しく思います。
例えば、カエデの葉っぱは子どもの手のひらに例えられるような切れ込みの入った形をしていますが、その切れ込みの部分を谷にして扇子のように折りたたまれた状態で芽の中で葉が作られ、それがまさに手を広げるかのように徐々に開いていくということを知って、一人で興奮していたことがあります。人為的に折りたたんで作ったのではないかと思ってしまうほど綺麗に納まっていて、自然の複雑さそして美しさに驚くばかりです。
庭づくりでは、完成を目指さずに少しづつ手入れをしながら自然のペースに合わせることが肝要かと思います。